25歳、愛を語る。
平成28年から平成29年に移るのは慣れるまで時間がかかったけど、平成30年にはすぐ慣れたな。
いきなり「いま平成何年やっけ?」って聞かれてもすぐに「平成30年!」って答えれる自信あるもん。
てゆーかもう平成30年なのが驚きやけど。
SMAPも解散したし、安室ちゃんや小室ちゃんも引退するし、平成が終わりを迎えようとしてる。
でもこれで全てが終わるわけじゃなくて、「平成」が終われば「平成♯」が始まるし、そこから「も〜っと!平成」「平成ドッカ〜ン!」と続いていくんだけどね。
平成ドッカ〜ン!元年なんてかなり未来の話やし、何があってもおかしくないよな。
人間ももっと進化しとるかも。
不思議なチカラがわいたらどーしよ?(どーする?)
何だかとってもすてきねいーでしょ!(いーよね!)
AIの普及で仕事っていう概念がなくなっとるかもしれんな。
きっと毎日が日曜日。学校の中に遊園地。
やな宿題はぜーんぶごみ箱にすてちゃえ!
おい!誰がおジャ魔ウンテンゴリラじゃ!
そんなことより孤独。
未来の話なんかより今の孤独。
平成30年になってもなお孤独。
愛に飢えたゴリラ。
愛が欲しい。無理なら3億円でもいい。
斉藤和義が「愛なき時代に生まれたわけじゃない」って歌っとったけど、斉藤和義が生まれた1966年にはまだ愛があったみたいやね。
それがどういうわけか俺が生まれる1993年までの27年の間に愛はすっかりこの世から姿を消してまったみたいで、おかげで愛の難民ゴリラです。
生まれてこのかた一回も愛を見たことないけど、やっぱり愛なんて存在しんのかな。
ひょっとすると俺が見つけれんだけで、実はけっこう身近なところに潜んどるとかないかな。
呼んでみたら案外簡単に出てきたりして。
あーい、あい!
あーい、あい!
おさーるさーんだよー!
出た。サルが出た。
結局サルしか見つけられないまま、この世に生を受けて25年も経ってしまった。
恥ずかしい。
「四半世紀生きてます。」って言うとなんか長い間生きとるかんじするから、「ゴリラで言ったら12歳くらいです!」って言うことにしようかな。
そしたらなんかいろいろ許してもらえそうじゃない?
あれ、そうでもない?
ちなみに今さりげなく披露した「ゴリラの平均寿命はだいたい40年くらいだから自分の年齢÷2をすると自分のおおよそのゴリラ年齢がわかる」っていう豆ゴリラ知識は、修学旅行で買った木刀くらい使い所がないのですぐに忘れてもらって大丈夫です。
さて、今年の誕生日は友達を呼んで自作のTシャツをプレゼントしてお祝いしました。
自分へのプレゼントを自作して、テンション上がって周りにも配るという、愛に飢えた哀しきゴリラの成れの果てがそこにありました。
でもそれでいいんです。
考えたんだけど、愛とは常に使い捨てで、そこにとどまり続けるものじゃないのかもしれない。
だから俺たちはあふれてきた愛を愛しい人に絶えず注ぎ続けることしかできないんじゃないかな。
あふれてきた分しか注げないし、あふれてきたときしか注がないんだから、そりゃ愛がそのへんに転がってるわけないよね。
どうりで今まで一度も見たことないはずだ。
愛はいつも一方的で、そんな愛に見返りを求めることは大きな見当違いなんだけど、それでも誰かを愛すること以外に自分も愛される方法が見当たらないんだよなあ。
愛されないと嘆くのは簡単だけど、周りの人の愛を枯渇させてるのはまぎれもない自分なのかもしれない。
みんなから愛されてる人を見ると、やっぱり愛されるべくして愛されてる気がする。
俺も早くゆるふわ愛されゴリラになりたい。
もしくは、愛の化身・マザーゴリラになりたい。
愛について少しだけわかった気がした途端、すごく愛が身近な存在に思えてきた。
エルサも、凍った心を溶かすのは真実の愛って気付いた瞬間魔法をコントロールできるようになってたけど、それに近い気がする。
ああ、すごい。
愛がどんどんあふれてきてるのを感じる。
愛が止まらない。
愛の源泉掛け流し。秘湯・愛の湯。
あんなに探してもどこにもなかった愛が、まさかこんなかたちで出てくるなんて。
でも実は今までに何度か感じたことのある、初めてではないこの感情。
そう、この愛の正体は自己愛。
自己愛に溺れそう。
愛されたいと喚き、それでも自分は自分のことしか愛さない。
こんなの、おジャ魔ウンテンゴリラじゃん。。。
ああ、また孤独が音を立てて加速していく。
おしまい