なぜ人は本屋に行くとうんこがしたくなるのか

元号が発表され、平成の終わりの足音も一気に速度を上げて聞こえるようになってきた。

私たちの日常に特に大きな変化はないけど、時代的に大きな節目であることには違いない。

そこで、新しい気持ちで令和に向かうためにも平成のうちにハッキリとさせておかないといけない問題がある。

それは「なぜ人は本屋に行くとうんこがしたくなるのか」ということだ。

これは日本人なら全員が経験しているであろう現象でありながら未だ解明されずにいる人体の不思議のうちのひとつだ。

 

「なぜ空は青いのか」と言うと理系男子がドヤ顔で 光の反射が〜 云々どうでもいいことをベラベラ話しだすが、私がしたいのはそんな話ではない。

私が本当にしたいのは「なぜ空は青い(こんなにも美しい)のか」ということであり、別に便意を催すメカニズムが知りたいわけではないので本屋での便意事情に詳しい専門家の方は今回お呼びでないことをあらかじめご了承いただきたい。

 

さて、先日いつものように本屋へ行きまんまとうんこがしたくなってトイレに駆け込んだわけだが、トイレの個室でひとつ気付いたことがあった。

それは「便意は決まって本を選んでいるときに訪れる」ということだ。

欲しい本があってそれ目当てに本屋へ行き、そのままスムーズに会計を済ませたときには便意は発生しない。

つまり、店内に人にうんこをさせたくなる特殊な超音波が発生しているのではなく「本を選ぶ」という行為が「便意」のトリガーとなっているのだ。

ふらっと本屋に立ち寄ったときはもちろん、欲しい本があってその本を手に取ったあとでも、他の本を物色しながら本屋をうろついているといつのまにか便意に背後を取られ、我々は力なくトイレに駆け込むしかなくなるのである。

 

ではなぜ「本を選ぶ」という行為が人に便意を呼び起こすのか。

それを知るにはまず本を選ぶことがどういうことか知る必要がある。

こんな経験をしたことはないだろうか。

家族や友人との外出中に食事を取ることになり、最初はそんなに食欲がなかったのにメニューを見ているうちにだんだんお腹が空いてくるといったことを。

最初からハンバーガーを食べようと思ってハンバーガー屋さんに行っても店内に入る前と空腹感はさほど変わらないだろう。

人間の体は当初の予定になかったことが行われようとしているときに、それに順応すべく体が反応するのかもしれない。

この場合、脳がこれから食事を取ると判断して、それに向けて身体が準備を整え始めているのだろう。

これは本を選ぶときにも同じことが言えるのではないだろうか。

「本を選ぶ」という行為が引き金となり、体が本を読む体勢に準備を始める。

それが「便意」というかたちとして現れるのだ。

とんでもない超人でもない限り、今まで自分の身に起こった出来事をすべて記憶している人間なんていないだろう。

個人差はあれど、それぞれ限られた容量の中で日々必要な情報を取捨選択しているはずだ。

そんな状況の中、体が本を読む準備を始めるとどうなるか。

本は度々「知の象徴」として用いられることがあるが、本を読むということを他の言葉で表すならば「知識(情報)の摂取」と言えるだろう。

ならば体が今ある余計な情報を消去して容量に空きを生もうとするのは想像に容易い。

では、いらなくなった情報はどうなるのか。

 

そう、それこそがうんこの正体なのだ。

 

私たちが日々惜しげもなく垂れ流しているうんこたちは実は我々が不要と判断した情報の塊なのである。

あなたは自分が最初に見た景色を覚えているだろうか。

初めて食べたカレーの味、初めて見た映画の内容、初めてあの子と話した日のことを。

あなたがこれまでに過ごしてきたすべてをあなたは覚えているだろうか。

否、そんなことないはずだ。

それもそのはず、今あなたの中に残っていない記憶たちはとうの昔にうんことなって川は流れ、大地へ帰り、地球の一部となっている。

そう、我々は文字通り先人たちの歴史の上に立っているのだ。

「過去のことは水に流そうよ」という表現を一度は耳にしたことがあるだろう。

比喩表現だと勘違いしている人がいるかもしれないが、あれはうんこのことを指している。

J-POPの歌詞で運命(さだめ)という表記を目にしたことがあるかと思うが、その原型とも言えよう。

野田洋次郎が君と書いて「恋」と呼んで僕と書いて「愛」と呼ぶずっと前から人々はうんこと書いて「過去」と呼んできたのである。

たぶんそのうち野田洋次郎が歌にしてくれるだろう。

「便便便意」みたいなやつ。

いやないか。

 

おしまい